(後院別當 牛車随身兵杖 皇后宮権大夫左衛門督 右大臣右大将 太政大臣従一位)實氏(母中納言能保女 文応元年五十三出家 法名實空六十七 文永六六十七死 号常磐入道相國)→(長男 検(?)別當 左衛門督 左右大将 内右大臣従一位)公基(母親維卿女 文永十一死 号京極又万里少路)、(次男 不経参議 随身兵杖 中宮大夫 東宮博春宮大夫 左大臣左大将 太政大臣従一位)公相(母家女房 文永四十二死 号冷泉相國)→(次男 参議左中将正四位下(三位イ))實顕(母 定家卿女中納言典侍 号冷泉又は橋本 文永八十一出、)、(三男 春宮権亮 参議正三位)實俊(母 別當基氏女 嘉元二 出家空玄)
冷泉→(皇后亮)宣孝→(左京大夫)隆光→(中宮潘 大進 左中)隆方→(参議 坊城大蔵卿 勧修寺)爲房→(長男)爲隆、次男(松室)實誉→(興福寺)覚實→(興福寺)覚覗
橋本芳太郎が戸主の原戸籍謄本(前戸主凶父橋本兵作と記載あり)で(ただし、長いので所々要約しています、また、一部は白塗りされていて塗りつぶされた項目(塗りつぶされてその上に「54 02 262」と記載されてます)もあります)、奈良県添上郡発志院村拾番屋敷の明治28年生まれの橋本義信という人物(父親は「橋本芳太郎(明治元年生まれ)でその橋本芳太郎は橋本兵作(前戸主として記載あり、現在の戸主は橋本芳太郎(芳太郎の欄の初めに明治九年十月五日に家督相続と記載あり))の長男であり明治9年に相続し(前戸主は橋本兵作)、奈良県添上郡治道村大字発志院378番地越智惣太郎長女越智ノブエ(明治31年生まれ母はアサエ)が大正3年に橋本儀信の嫁になり、妻ヤエ(明治六年八月十日生)の欄に明治二十四年二月十九日奈良県式下群三宅村大字屏風(風が読めない)馬場儀平二女入籍と記載あり、大正10年に橋本儀信はその越智ノブエと離婚、婦の欄にカツ(奈良市三條町五百七弐拾番地戸主松田又太郎大正拾弐年九月弐拾壱日橋本儀信ト婚姻届当日入籍(父松田久治郎母トミエ)ト記載あり、そして橋本兵作の戸籍には文政11年大和国平郡群馬司村堀(垣か?)部喜平伯母(文化11年11月3日生まれ)入籍と記載があり、嘉永元年11月16日生まれ慶応?(慶応の漢字が読めない)2年大和国添上郡横田村森川勘十郎妹が橋本兵作の戸籍に入籍しており、橋本兵作の長女は明治23年に大和国添上郡治道村大字横田森川常(常の漢字が読めない)の嫁となり、橋本兵作の次女は明治24年に奈良県式下郡三宅村の馬場儀兵の長男義則の妻となっており、橋本兵作の次女は明治24年に奈良県式下郡三宅村の馬場儀兵の長男義則の妻となっており、橋本兵作の次男の橋本梅太郎(明治9年生まれ)は添上郡治道村大字発志院193番地に分家しており明治参拾壱年拾月貮拾壷?日奈良県磯城郡三宅村大字屏風(風が読めない)拾◯(◯は読めない)番地馬場義則妹(トミエ明治拾参年八月拾◯(◯は読めない)生まれ)婚姻届同日受済入籍と記載があり。
法相除一乗院御門跡南都一乗院本願法務又興福寺金剛峯寺別當寺長者顯密兼學
良圓大僧正 九条殿後法性寺関白兼實公息母修理太夫賴輔女 興福寺別當承久二正十四寂
實信大僧正 近衛殿普賢寺基通公息号桑心院僧正 興福寺別當
實靜少僧都 近衛殿猪熊関白家實公息 實信弟子 興福寺別當
信昭大僧正 近衛岡屋政関白兼經公息法務 興福寺別當 弘安九六十四寂
隆信禪師 九条殿一音院忠宗公息 尊信信昭両僧正弟子大乗院兼帯 興福寺咧嘴
覺惠禪師 同報恩院関白忠敦公息 信昭弟子 興福寺別當
覺昭大僧正 近衛殿深心院関白基平公息母左少将通能女法務 延慶元五十六寂 号後清静光院
良信大僧正 鷹司殿圓光院関白基忠公息 号後發心院法務 興福寺別當文保三七十二寂五十二歳 拾玉載續新千入
良覺大僧正 近衛殿浄妙寺関白家基公息号松超寺僧正法務興福寺別當正慶元八十一退寺同十四寂四十三歳
法相宗大乗院御門跡寛治元二隆禪僧都建立
隆禪權大僧都 左少将藤原政兼男兼貞孫母従三位濟政女長谷寺大安寺別當大乗院本願初祖康和二七十四寂六十三オ
信圓大僧正 法性寺関白忠通公息母中納言源國信卿女法務 一乗院兼帶千ニ人
賴實權少僧都 成賴子 神受院建立
尋範大僧正 京極摂政関白師實公息母師通公女号内山 法務 興福寺 長谷寺別當千ニ入
實尊大僧正 松殿摂政関白基房公息法務千ニ入
實大僧正 光明寺摂政関白通家公息母太政大臣公經公女法務 又橘寺別當 文永元十一廿六寂
實信大僧正 普賢寺摂政関白基通公息 法務一乗院兼帶葛川住寺
尊信大僧正 洞院摂政関白教實公息薬師寺又菩提山別當号室峯寺
●彦次郎は大和国横田荘の沙汰人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大宮は伊勢国人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大宮院は後嵯峨院中宮藤原嬉子で正応3年9月に亡くなったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●岡は一乗院家坊人や国民や郡司や大和国平田荘官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●岡部殿は大僧正や門跡や前僧正や禅師垣教や若君であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●岡崎は十市代官や岸田被官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●岡部殿は大僧正や門跡や前僧正や禅師垣教や若君であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●岡村は長谷寺であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●岡本殿は近衛家平であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●興田は十市被官や越智代官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●荻は実禅兄であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●奥は極楽坊前坊主であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●奥は新免住や新免田や石垣であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●奥西は伊賀人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●奥林は山城国狛住であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●奥坊は長谷寺住や実印であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●桶井は古市被官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大納言律師は兼親や孝祐であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●順堯は実弘や発志院方であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●桶井は古市被官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●訓専は春善房や西発志院であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大夫は発志院やハシノ院であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大夫寺主は人名の好実であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大夫太郎は神人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大夫入道は西京火鉢作給主であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●大菩提院はページ数のみ
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎は御童子、東金堂童子であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎男は吉田法橋被官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎三郎は己心寺下人や中在家であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎四郎は大和国苻坂油売であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎次郎は西御門居住であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎次郎は大和国辰市小延郷住人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●太郎丸はd左近次郎息で文明5年7月3日死亡e六丸孫や五郎次郎息や御童子や中院住f藤若息で明応8年6月9日死亡g郡使や大和国倉荘佃定使であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●秦九郎は明応7年10月2日死亡で指田秦九郎信次であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●藤五郎は中間であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●藤左衛門尉清氏は越前国河口荘寺門使や神人やや杉若であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●藤次郎は番匠や大工や中座や十市代官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●藤次郎大夫は宇治猿楽であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●藤七は神人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●藤寿は古市息であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●道円は大和国横田荘百姓であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●道慶は足利義政の法名であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●道英は宗円房子であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●道珍は大和国横田荘百姓であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●徳は奥発志院童であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●二条良実は普光園院殿や行空であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●二条良基は後普光園院摂政で元中5年6月13日死亡であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●二宮は斯波被官であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●二楽軒は人名で飛鳥井雅康であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●仁和寺宮永助親王は応永年間活動であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●西丹後公と西発志院と発心と発心院と西室大夫得業はページ数のみ記載されている
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●西室は東大寺や公恵や僧正や大僧正や東大寺別当であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●西殿は人名で鷹司西殿や人名で円海であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●西師順は御師であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●日尊は南朝方や後醍醐天皇末であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●発志院は小別当(少別当)や菩提山発志院や禅徒であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●発志院は発心や発心院とも記載されていたとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●堀は辰市住であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●九条・九条頼嗣は摂家将軍であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●実尊は松殿太閤や藤原基房や息や後菩提仙で嘉貞2年2月9日死亡であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●実有は西発志院であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●俊円は東北院僧正や清水寺僧正で文明16年5月13日死亡没であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●彦次郎は大和国横田荘沙汰人であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●好実は王寺大夫や寺主や一条院坊官や法橋や上座で文明19年5月4日死亡であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●多田は京極であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●泰祐は相模南院であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●俊算は大安寺長老で文正2年2月死亡だったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●専円は縁識房であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●丹後公・殿・丹後庄・円英は横田荘下司であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●斯波高経道珍は大和国横田荘百姓であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●円英は大和国横田荘百姓であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●コウトノは横田荘であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●助は横田荘百姓)であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●せ井太郎は横田荘百姓であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●左近は大和国田井荘間田百姓や済恩寺荘百姓や横田荘百姓や三条・権上座田百姓であったとされる
(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
●良信は一乗院や後発心院であったとされる(『大乗院寺社雑事記総索引 上巻(人名編)』による)
橋本藤一は職を奈良町奉行與力に添じ、廣く奪王の志士と交を結びたる人なら。晩に、 天性災道にして武を好み、特に槍法に至りては寶藏院流の奥義を極ひ。交國典に通じて和歌を嗜み、仲林光平に従つて研鑽する所深し。勤王様炎の設器々たるに及び、奈良に劍客三上力之輔と解する志士あり、慷慨にして義を好み、密に援炎の同志を募り、以て爲すあらんとす。藤一これと変り、終にその連判悲に署名す。後半登れて力之輔は獄に下り、藤一坐せられて閉門せられ、京都所司代會津伏の取調べを受け、百方辯解すれども、嫌疑を解くに由なく、幽酵謹慎すること四年。ある厳
くもの巣もほこりもとらぬ疑が家の、
長閑き春になるをこそ
と詠じたり、意を當世に寓せること味ふべし。後、遂に飛鳥井家の辯護によりて街天白日の身となるを得たり。明治戊辰の綾に、十津川の志士吉田正義の事に関しくもの巣もほこりもとらぬ疑が家の、長閑き春になるをこそ尋て鎮撫總督府に召され、王政維新の後は奈良縣少局となり、企갉周到、良近の譽ありき。後、職を僻して手向山神社綱窓となり、明治十九年十一月五日病みて破す、 年六十五。墓は白花寺にあり。その碑文に曰く、
君名政孝、宇子友、帶川其號通稱藤一、中條肥次之長男、後於橋本政方式制其家姓藤原、本氏二階堂、世居相模後移紀伊橋本因氏、八世祖政長、天和三年辟奈良來行部下與力子孫襲其職途爲和州奈良人君既制家簿書訟獄莫不適宜退、戊辰變革十津川吉田俊男首唱斧王大義與君及中條正心周旋其則而不至煩王師者、君之力居多、尋辟鎮撫總督府後任奈良縣少愿明治四年歸田其後爲手向山神社祠掌補訓導君聽訟最盡其情置事周密、至槍法火器之術悉得其神傳又嗜國詩及北畫旁通猿樂之技君以文政五年十月十五日生、明治十九年十一月五日以病殁享年六十有五、葬于奈良東南白毫寺村先榮之次配山下氏舉二男先死、繼配其妹長男平三承家、
西京鹰士春日仲淵撰並書
傍にその歌を刻せり。
初秋虫.
秋風の際だきかね荻の上に、
露ばかりなる虫の音ぞする。
二二八〇五 大和橫田莊檢注目錄帳 (廣島大學藏猪熊文書)
(橫田莊國記入)
横田庄
注進嘉元四年田畠檢注目錄井名寄事
合荒熟田畠肆拾三町九反二百八十步
除十三町一反百五十三步
号地頭分七町四反
四丁七反二百四十卜
堤八反二百卅卜
道三十二卜 溝一反十一卜
殘見作田畠三十丁八反百廿七卜
尙除六丁九反二百九十卜
寺社敷地二反
八王子每月御神樂田一反
同社九月九日祭田一反
正福寺修理田二反
發志院莊嚴田一反
同承仕田 二反
禪定院御所院仕田二反
井新田 一反
百姓十名屋敷一町
鐵事給 五反
□五反
□五反
□一町一反
□五反
□實給五反二百九十卜
預所給一丁
定殘田畠廿三丁八反百九十七卜
畠四丁五十六步 加紅花畠四反定
分米十五石六斗二合七与
名田十八丁二反百七十四卜
分米九十九石九升七合六与
浮免田一丁五反三百廿七卜
廿九日
一屏風二双帳事専祐仰付之、
一人夫南方辰巳土上之・
一屏風二双ノ(タ直帳之、障子紙二東之内十二、 ・帖・障子六帖式タナフシ、
合四東二帖也、
一横田庄公方御米未進躰沙汰人注進之・給主取
進之、去年辰分、
一石五斗一升八合 タンコトノ
二石八斗二升七合 ミタトノ
四斗五升四合 コウトノ
二石八斗 (ヨシオカ)チフ
五斗五升四合 (ハシノ㐄ン)衛門九郎
合九石一斗九升五合 (ハシノ㐄ン)大夫
二斗二升六合 ハシノ㐄ン七郎
四斗六合(ナカンシヤリ)四郎
4石六斗沙汰仕分
合九石一斗九升五合
四石六斗沙汰仕分
二月廿五日 サタ人
以上利分一石三斗二升
都合十二石七斗二升
ト。
是那羅/地名ノ國史二見ユルノ初ニシテ、以其ノ名ノ出ヅル所ヲ知ルペン。蓋シ那羅山、今ノ奈良坂以西法華寺以東ノ山城ニ境スル一帯ノ山棠云ヒ、其ノ以南ノ方面ヲ總ペテ那羅里ト稱セルナリ。因ニ云フ、古歌奈良ヲ詠ゼントシテ青丹吉ノ語ヲ冠其ノ以南ノ方面ヲ總ペテ那羅里ト稱セルナリ。因ニ云フ、古歌奈良ヲ詠ゼントシテ青丹吉ノ語ヲ冠ス。舊說青丹吉の青釜ノ義ニシテ彼ノ彥國葺ノ忌登ヲ居エタル故事因ルモノナリト云フ。註(奈良町、明治三十一年二月一日市制布ク。)
元明天皇和銅三年都ヲ平城遷シ左京右京ヲ立チ九條大路通ジ、宮殿邸宅ヲ設ヶ規模版宏大ナリ。之ヲ平城ノ都ト稱ス。爾後七朝七十五年ノ間帝都トナリシガ、桓武天皇延曆中更二都ヲ平安二遷シ給フニ及ビ、平城舊京屬シ邸宅道路荒壞委シ闘テ田畝トナレルコト平城宮ノ下述ブベシ。元來奈良町ノ地、古ノ左京一屬スル方面ニシテ興福・元興等,大寺其ノ間=屹立セリ。遷都以來寺僧互ニ土地占領或土豪ノ侵有スル所トナリテ之ヲ奈良或、南都ト稱セリ。然レドモ今ノ如ク商店軒ヲ連ネ一市邑トナレルモノニアラズッテ、田舎ト異ナルコトナカリキ。康正二年飯神殿庄算田帳ニ「間田奈良百姓分,齡小法師,而智院,興二郎,寺枷、三郎二郎、京パラノサュノ五郎、福寺,明春房、沖上石クラ、加塔院、カペヤノ三郎次郎,加わ勿加ノ兵衛、カ加河ノエボシャ、南大門カデヤ,椿井ノ兵衛五郎、西ハシノ院ノ五郎」等ノ人名ヲ載ス。圈點ヲ附スルモノハ郎チ在慮ノ名ナリ。又尋尊僧正長祿四年閏九月二十六日日記ニ引ヶル正長元年/間別貸納帳二頭塔四尺 窪一間同辻子ノ里卅一間 幸三十間 松谷郡岩井四六間南市鋼十九間
大乗院寺社雑事記 第4巻(国会図書館請求記号554-213、245項)
庄屋(沙汰人)、事不法無沙汰仁躰也、剩他領中ニ止住爲門跡難義也、發志院之内ニ器用躰可被仰付之事、此条尤也、早々可申付云々、
以上
大日本史料 第8編之13 / 大日本史科(横田庄・今林庄)(867項、国会図書館請求記号GB22-7)
一不空院經講寄進
現納貳貫文 納所得分三百文、定使給百文、
一支配 季彼岸初日講問加分五十文ッ、、出仕百文宛、 合壹貫文、六百西發志院兩度羅漢供方出之、
一橋本屋敷 定五百文四月十八日
支配口別百文宛、所殘納所得分、
一松田 良現房律師 三月廿四日會合、現納一石七斗七升七合、延分七斗一升八夕者,四合延、本延合貳石四斗八升七合八夕者、歐龄处针六合、
定米貳石三斗九升一合八夕
代錢二貫八十文和市一斗一升五合、
一支記、會今講明三百文苑出土七十文宛、佛共澄明代冊文
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横田莊
文明九年雜載
結者云々、
〔尋尊大僧正記〕 十月晦日、
一昨日北國定使下之坪江上郷給主分事、巨細仰付之了、
十二月廿四日、
一武友仕丁伺申、坪江給主分事、自東北院以河内公被申付之間、地下事催促
仕處虎松丸自御門跡御使さて催促仕但武友取調仕候十貫小綿四屯卜
請取云々、
〔尋尊大僧正記〕 十一月朔日、
一自當鳥屋方以代官岩井三荷折一合唐布二合進之横田庄八十四米內、龍田方十五石、成身院方十五石、合三十石切米,先年沒落之時、鳥屋行之今度又可知行云々、然而代官并地下沙法人等合混亂惣御米行旨近日加下知云々、其子細大不審之間、以觀禪院相尋之處更以三十石外不可申達乱之由申入了其事又只今以代官重而中入間近比御本意也、彼兩人方三十石外万一百姓等申違亂者、其方矢負等被仰請可有御催促旨、以奉書仰遣之、
公方微米
悉可知
知
石御
廿二日、
一橫田庄沙汰人事如此間彥次郎ニ被仰付旨、島屋方仰了、投入之由申旨、
泰弘披露也、
廿四日、
一橫田庄八十四石御米損免二十六石給之得五十八石、此内三十石八龍田成身院方殘二十八石之内二石七斗反米十石二斗南院給十五石一斗公
方、
〔尋尊大僧正記〕 八十一月十六日、雨下、
一出雲庄損免檢注使明恩、春阿彌兩人下向之由奉行申之、
出雲莊
勾田莊
十二月十九日、遷入、
一自出雲下司方注進、成身院方十石米事、岸田方可取納由申云々於当年者
無支配狀之由可返事旨仰下了、
〔尋尊大僧正記〕 十一月十九日、
一持經者方明年中布施一石五斗,對合今日下行、長宗大請文進之勾田庄平
八名年貢也、
文明九年雜載
目安松田長秀二
小河在十町線分十河七
永正六年十二月十六日
筑後國竹野郡內小河庄七拾町同蛇河分拾町附之事任御判之冒渡進候、可有知行候仍狀如件、
永正六年十二月十五日
右馬頭親賢(花押)
小河藤五郎殿
十六日、喉是ヨリ先、石田彈正、三條西實隆,所領丹波今林莊ヲ押領スルニ依リ、實隆、之ヲ幕府二訴フ、是日、幕府、之ヲ裁シ、同莊ヲ買得セル鹽見某ヲシテ、實隆二還付セシム、
(實隆公記】 四十三月十四日丙午雨時々降、 中
() 吉曜之間、知行分丹波國今林庄事、目安調之遺松田丹後許內々可中伊勢守
之由、申遺蜷川新右衛門許了,
(實隆公記】四十閏八月廿三日、壬子天晴中(川高)
今日吉曜之間今林事付齋藤彦三郎入道申遺右京大夫了,
細川高國三申遺
十月二日、庚寅、雾、中
安富又三郎來、齋藤彦三郎入道同道也、今林庄事已申付之由右京大夫示送之、先以安堵也、
洛鹽鹽見某上モス
+知田今
ル行彈林
所正莊
莊石トノ石
六日、甲午、晴中
抑丹州今林事石田彈正當時知行也堅可申付之由右京大夫示これ且
安堵者也。
七日、乙未、雨降、
早朝遺書狀於右京大夫丹州事且配著之由申了及晚彦三郎入道來堅猶可
申付之由也、
廿三日、辛亥、晴、中
右京大夫今林事申遺之、遺状之處有返報,
十一月十七日乙亥、晴中
右京大夫石花二桶送之宗不使也令林庄事懇有示旨爲悅々々、
十二月一日、戊子天晴、土用事、中
齋藤彦三郎來、今林庄春林院時請文等正文五通直遣之鹽見一昨日上洛之間、於公方奉行所可仰意見、明日可申遺之間、正文所望云々、仍遣者也兼灭六
條坊門地事同有申旨、注遣了、
十六日、癸卯、雨降、則晴、及晚又雨降、
永正六年十二月十六日
總見某買
永正六年十二月十九日
得謂しナシ
訴訟落著
丹州今林庄本所分事、鹽見買得之儀、無其謂之由於公方奉行所判斷事終調奉書、服钟陽今日以齋藤彦三郎入道送之配著自愛此事也、則称礼可能向之由申送之処今日先不可来之由中送之間相留了、数年不知行、如此遵行
高國ノ持分トシテ代官チ置ク
尤自愛也代官事右京大夫爲持分、申付能勢十郎云々、
十二月廿九日、丙辰、晴、60中
今林庄公事物炭一荷到來、珍重云々,
實隆公記】 + 永正七年十月廿七日、庚戌、晴、 中
公事物到来ス
年貢米到来ス
【 自今林庄年貢米貳石初而運送之、祝著無極、千秋万歳、自愛々々、則以書狀謝
宗不了、
實隆公記】 + 永正八年九月十八日,乙丑、晴
【 中宗不来、細川右京大夫有書狀、丹州知行分事不可相違之由自筆也尤自愛也、
數刻難談、
十九日、前左大臣徳大寺實淳ヲ、太政大臣二任ズ、尋デ、關白左大臣九條尙經ニ一座宣ヲ下ス、
〔公卿補任)
陣座於テ宣下
ス序陣宮春
二ノ日日申儀時社
請/定遷
白正二位藤向經、四十氏長者、牛車、是定十二月廿五日一座宜辦
太政大臣從一位同實復、於十十二月十九日任、於陣宣下、
【 實隆公記】四+十二月十二日、己亥、晴、中
(押小路) 大寺間) 及晚師象來前左府任相國事、來十九日春日遷宮日時定陳儀次可被申請
之、
其子細可執奏之由也、賜書狀可申之由報了、
十三日、庚子、晴、中自
徳大寺有消息、則可令披露之由返答、書愚狀、彼奏状令披露了、勅答子細之由也珍重々々、
不可
有
實淳書狀
宣下ノ儀
勤修寺
尙類以
テ申入ル
相國事、先年内々致外卒爾之儀、憚存候期候仍不顧是非、以申入候、於内々儀者、 用意候之間、如御禮も夕被加拿察可然之
微望候之処且勅許候き、雖然之間、如形爲相調其儀延引候,如今者、守其株不可陣次宣下之儀可中沙汰之由存侯之間以在太先年任申御沙汰之旨可得尊盧候將又宿徳装束可遅々候、然者先以公胤卿可申入之由様御申入候者可爲本望候恐々
十二月十三日
實淳
永正六年十二月十九日
永正六年十二月二十七日
右來廿五日以前、必可究進之状如件,
永正六年十月十四日
大和出雲莊
同横田莊
法橋上人位判
一一四
一御初任米所々ョリ沙汰時、給主ノ庄家、、給主ョリ加催促、成足半分給主拜領者也、出雲庄五石ニテ御宅事申、宗信、善恩此兩人田舍被下十市森本被仰合催促則田舍ニラ納畢、無勿躰事卜及沙汰也、
() (4) 同横田庄三石ニテ御免、コレモ同一石五斗拜領仕候也就其給主分之事, 御得度御大儀間、カリメサルヘキヨシ、被仰出トイヘトモ、給主子細申、悉半分拜領仕者也、政所者、惣庄ョリノ成足分拜領者也、Although御得度御大儀、御得度以後マテノ事、、不可致拜領之由被申、無拜領者也
是御別段依奉書如此也、奉行者南院泰弘、多門院宣舜、因幡興舜三人也納所者順願, 善恩兩人、土寺倉カリメサレ納者也,
出雲庄御米成足四斗二升七合源四郎
二斗形部大郎
一斗源四郎
大略二斗衛門四郎
七斗沙汰人上
納所所行
得度装束
役者
十二月中
一廿七日若君様御得度御装束コレニテ用意、鈍色御上袴裳、
役者
東門院得業、西南院、兩人、昏燭役清圓ヶウソクヲ持参、其後予、俊實等湯帷持参、同ケウソクノウエニヲク、又シック持参左右ニヲク、又ヒタシカミ、 同、左右ニョク、交御クシノッ ミカミ、ゾノ中、御クシ、モトユイッ入其後清圓被参、御クシヲ御クシニッ左右エワケ、ジソクノャク人被参、シソクラトホシ、左右=祇候、ソリテ淸圓、予、俊質ソ タシカミニテ御クシヲヌラッ畢、其後御道具共、モトノコトク御前ヲトリ、九間ノ東御ェンニラ、 役人上總寺主方渡之其後御本尊三度御廻ァリ、西南院御カイシャクノ者也、其後又カイヲ御ウケ、御タイサン、ヤカラ十二間ニテーコンマイル御前,衆東林院、東院、西南院、東門院、成就院御前ノ御ハイセンチ、ツキノワ上總寺主父子也、
〔元大乘院松園家譜法務大僧正經尋
經關男白 (九) 向明應七年月日生永正六
年十二月廿七日得度、
永正六年十二月二十七日
八、文禄四年 大和国添上郡内発志院村御検地帳
八月十九日(増田右衛門尉打口)
文禄四年八月日
大和国添上郡内発志院村御検地帳
増田右衛門尉打口
廿貮帖ノ内 長田七郎決判
か,のかいと上田十間廿間 但二枚六畝廿分 二條殿壹石四升七合 總九郎今ハ又二郎今ハ彦九郎
(中略)
文禄四年八月十九日 長田七郎次郎
荒共惣吟味之時簿中ニ加
五百六十四石五斗二升三合加
(右脱)増田衛門殿打口庄屋孫次郎内證之覚」)
大和国関連 証拠資料集成
一、大和志料 上巻
出典:23項、24項、25項(請求記号GC174-E6)
ヲ釜口ニ出ス・十九日幕府澤藏ヲ召シ更二丹後ヲ攻メシム。澤藏乃チ成兵ヲ當國二置京師ニ還ル國中ノ社寺多此時,兵火燒失セリト云フ。永正四年九月更赤澤新兵衛內堀新次郎等ヲシテ當國二入ラシム『十市、箸尾、楢原、筒井兵ヲ奈良出之ヲ拒ク、利アラス、十八日京軍東大寺二入ル、南都,地悉クコレニ占領セラレ院家在家概ネ打破セラル、又一軍、乾脇衆ヲ攻ム、片岡越智片岡等沒落。是二ボテ赤澤、郡山三、内堀、觀音寺、古市、大安寺三三好後、藥師寺二陣シ國中二號合セッ十一月十三日國衆悉ク蜂起シテ之抗ス赤澤兵ヲ分テ之ヲ討スルニ會兩畠山ノ和敗此間國衆ノ去就常ナクル擾亂セリ事、興福寺英俊法印永正年間ノ日記ニ詳カナリ。既ニシテ島山高政河內,守護トシテ高屋ニアリ、三好長慶事ヲ以テ高政ヲ悪ミ舍弟實休ヲシテ之ヲ攻メシム此時當リ大和ノ國衆、大抵畠山氏ノ爲メニ城守ス。永祿二年六月長慶其臣松永久秀ヲシテ大和ニ入ラシム先ッ郡山城ヲ陷レ進ンテ十市城ヲ攻ム、十市支フル能、ス身ヲ以テ多武峯ニ遁松永勢二乘慈恩寺秋山ヲ降シ之ヲ攻ム、利アラス、退テ兵ヲ泊瀬三輪櫻井二分チ再舉ヲ圖,此際安倍,文殊堂兵火ニ罹ル三年松永、南都眉間寺ニ城ヲ築キ之ヲ多聞城ト號ス。コレニ居リ時々兵ヲ出シ國衆ト戰ウ。八年五月十九日松永、三好,三人衆ト謀ッ將軍義輝ヲ弒ス既ニシテ三人衆松永ト隙アリ多武峯ト合力シ之ヲ攻メントス。九年五月松永出テテ河内ニ赴キシモ志ヲ得スシテ堺ニ入り再多聞城二還リシカ、十年十月三好,兵之レヲ討セントシテ來り東大寺二屯ス松永襲フテ之ヲ敗リ終ニ伽藍ヲ火其顛末、椋橋東坊,天正十三年四月筆記二詳カナリ、宜ク本書就テ見ルヘシ十一年尾張,織田信長足利義昭ヲ奉シテ入洛シ近畿ニ號合スルニ及ビ松永款ヲ納信長命スルニ武力ヲ以テ當國ヲ取ルヘキヲ以テス松永因テ兵ヲ國内用と己レニ服セサルモノヲ攻ム是ョッ先き筒井順昭畠山氏二屬シテ數、松永兵ヲ交フルモ志ヲ得能ハス、卒スルニ臨ミ老臣一族二遺命シ子順慶ヲ輔佐シ松永ヲ滅スヘキヲ以テセラル。永祿十二年順慶松永卜法隆寺並松二戰爾後互二勝敗アリ。元龜三年信長命シラ和ヲ成サシム、國內暫ラク小康二屬セリ後チ松永事ヲ以テ織田氏二叛ク二及に織田信忠細川明智ノ諸將ヲ率キ順慶ヲ嚮導トナシ之ヲ信貴山城に攻ㄙ、城陷リ松永自殺ス。實三天正五年十月ナリ是ニ於テ松永,所領,當國二在ルモノ及北畠氏,麾下屬スル宇陀山邊三郡ヲ界ケ之ヲ順慶興フ。
信長ノ政ヲ近畿ニ行フャ惟任光秀瀧川一益ヲ遣、シ當國,土田ヲ檢覈セシム東大寺藥師院舊記ニ「天正八年十月庚辰當國《信長御內惟任日向守瀧川左近丞兩寺被相越興福寺成身院吉祥院ニアリテ一國の差出ヲ撰ラ昏書出年貢如何程卜算合アル也兩寺門跡院家無殘也跡家福也上下萬民之指違無是非次第也,又興福寺西發志院年代記三天正八年九月國々指出在之大大和國衆高田戒重大佛供生害」、見ユ。此時,調査ノ頗嚴密ナリシハ當時法隆寺ヨリ二將ニ提出セッ寺領ノ注進文ニテ知ラレタリ隆文職待信長嘗テ佛徒,横暴ニシテ土地ヲ隱蔽シ敢私慾ヲ貪ルヲ惡ミ大ニ削殺ヲ加ヘントシテ殊ニ二將ヲシテ先ッ其收入ヲ調査セシメシモ不幸弑逆三遭と之ヲ果サス他日豊臣秀吉全國ヲ檢地シ社寺ノ所領ヲ削減セシ八郎チ信長ノ志ヲ成セルモノナリ。光秀其君信長ヲ裁スルニ及と使ヲ筒井二來々タシ陷ハスニ利ヲ以テシテ己レヲ援ケシメントス。順慶老臣ノ策ヲ用キ竊二首鼠兩端ヲ持シ終三豐臣氏ノ恩ヲ市秀吉因ラ舊二仍リ當國ヲ順慶與十二年順慶卒シ義子定次嗣ク『十三年秀吉命シラ定次ヲ更二伊賀三封シ、舍弟秀長三大和紀伊和泉ヲ與〈郡山二治セシム。十九年秀長卒シ子秀俊嗣。文祿三年天死シ嗣絶ェ國除カレ増田長盛ヲ郡山二在番セシメ三國,政ヲ行ハシム。四年秀吉命シテ全國ヲ檢地セシム夫大化班田收授ノ制弛ミショッ豪族ノ兼併院家ノ隱蔽トナリ、田畝,反別歳入得テ詳カニスル能ハス。其當國ニ於ケルモノ、和名抄三田數一萬七千九百五町九段百八十步下記、色葉字類抄三八本田一萬七千七百五十町トアレトモ何レノ時ノ調査ニ依レルヲ知ラス東鑑太平記ニ據ルニ鎌倉幕府合シテ諸國,田交ヲ作ラシメシコトアルモ其書今傳ハラサレハ之ヲ知ルニ由ナシ 是至り豊臣氏天下ヲ檢知シ當國ニ於テ四十四萬八千九百五十石ヲ得タリ其石率ニ依り計算ヲ加へ、田畝,概數知ルヘキナリ。
關原,役長盛敗走高野山三赴き郡山城主ナシ、徳川家康筒井ノ名族ニシテ血食セサルヲ悠ミ、族子定慶、慶之ヲ召シ二百石三十六騎宛ヲ附シテ郡山城三在番セシム舊臣稍來屬シ再に家名ヲ恢復セントスルニ方リ會、大阪難起レリ、大野主馬使ヲ郡山來々シ義故ヲ斜合シ來援セシメントス、定慶德川氏,恩義ヲ思之ヲ謝絶ス、大野怒り筒井ノ舊臣箸尾等ヲ嚮導トシ郡山ヲ攻ヌシム、定慶敵スヘカラサルヲ知リ郷里福住走り、慶之、南都隱ル、大阪/兵郡山ヲ燒更三南都三及ホサントス、家康伏見ニ在リ大和ノ動亂ヲ聞キ水野氏ヲシ
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