橋本兵作家の歴史的考察

中世門跡領における在地性と近代士族への継承

橋本家に関する歴史的変遷(詳細分析)

寛治元年(1087年頃)〜:大乗院の成立と基盤

興福寺門跡としての大乗院が成立。門跡としての地位を確立する基盤期であり、後の所領形成の端緒となる。

鎌倉〜南北朝期(12〜14世紀):門跡領の拡大と在地関係

大乗院が摂関家(藤原)系の子弟を相承して門跡領を拡大。発志院(横田荘)や西発志院などが門跡領に組み込まれる過程で、院家(発志院)と地域在庶民・被官の関係が確立された。

資料例:大乗院寺社雑事記(発志院に関する小別当・被官の記載多数)
室町〜戦国期(14〜16世紀):在地勢力としての“橋本”

「発志院」「西発志院」「東北院」等が文書上頻出。門跡が末寺・別當を補任し、小別當を派遣する支配体制が確認される。この時期、南都七郷不開御門郷の地名群の中に「橋本」の記載があり、在地の有力家として登場する。

資料例:大乗院の記録群、尋尊筆写史料、南都七郷地名索引
戦国〜安土桃山(16世紀):寺社行事への関与

「西ハシノキン(西端の橋本関連施設・人物)」の名が寺社行事や寄進記録に現れる。橋本家が春日大社や大乗院系の行事において、供給や寄進を担当する密接な関係にあったことが示される。

資料例:多聞院日記、春日大社文書
江戸中期〜幕末(18〜19世紀):与力系統の台頭と並存

橋本喜久右衛門、橋本政孝(藤一)ら「奈良奉行所与力」としての系統が活動。文化的パトロンや公事方として目立つ一方、発志院地域では庄屋・士族としての橋本家が継続しており、二系統が地域ネットワークを形成していたと考えられる。

資料例:大和人物志、類聚伝記、杜園関連資料
明治7年(1874):士族身分の公的証明

橋本兵作が「永世家禄奉還之儀ニ付願書」を提出。書類内で「士族」「永世家禄」と明記しており、明治政府に対し旧禄の返還申請を行った事実が確認される。これが兵作家が正当な士族身分であった決定的な証拠となる。

資料例:旧郡山県関係文書(奈良県立情報図書館デジタルフィルム)

年表(要点・出典名つき)

年代 主要事象と出典
12–14世紀
(鎌倉〜南北朝)
範智・能寛等の名が発志院/西発志院に現れる。発志院が興福寺門跡と深く結びつく。
[出典:大乗院寺社雑事記、法隆寺年表等]
室町期
(14–16世紀)
大乗院が発志院の別當・小別當を補任。橋本・橋院・橋本屋敷の地名や寄進記録が散見。
[出典:大乗院寺社雑事記、春日社文書]
戦国〜安土桃山
(16世紀)
所領再検査。「西ハシノキン」「橋本寄進」等の記録。橋本家が寺社行事に頻繁に関与。
[出典:多聞院日記、春日文書]
江戸〜幕末
(17–19世紀)
橋本喜久右衛門らが奈良奉行所与力として台頭。同時に発志院地域で庄屋/士族としての橋本も継続(二系統の並存)。
[出典:多聞院日記、杜園関連資料等]
明治7年
(1874)
永世家禄奉還願。橋本兵作が士族として職責・身分の正式処理を行っている事実が公文書で確認。
[出典:奈良県立情報図書館所蔵フィルム]

発志院と領地を巡る中世史料(箕田庄関連)

発志院が地主(領主)として、東大寺領の雑役免(香菜役)に関与し、興福寺と東大寺の二大寺院間で裁定の対象となっていたことを示す重要史料です。

5. 橿原市史 史料 第1巻(嘉応元年)

嘉応元年(1169年)十一月十九日:東大寺・興福寺間の箕田庄所役裁定文書

一可早令動仕箕田庄所当香菜役事
副下去年六月廿三日東大寺下文案一通
右、彼寺去年八月日解状偁、当庄者当寺建立以降、大仏御仏聖、元代代聖皇以供御稲被分献、於御菜者、以公田三百六十町、毎日供奉年尚、仍代代国司免除所当公事臨時雑役、為往古例之上、去寛弘・万寿被下宣旨畢、然而依為浮免、有旁煩之日、以承保三年定坪被下宣旨、被立券、為永代之寺領、于今所勤仕所役也、依之故大殿下御時、当国撿注之刻、又任旧例被注除已畢、為寺領之条、古今不易沙汰也、則当庄其内也、証文其数也、由緒有限、随即発志院代代院主全無致妨、而近年恵印始為押取庄民之作手、企相論之間、打留恒例寺役、然而依為領主之靜、寺家強不左右、別雖不進寺解、動対捍所役、爱恵印申状云、於寺役者依為興福寺進官免、有制止之故、不能勤仕者、於此条者、於彼寺比技文書、任道理如本可為東大寺領之由、被裁定先畢、兼又領主条、寛弘之比、彼院主仲安出沙汰之日、当寺所司鴻助依陳申子細、被成長者宣之次、為香菜免之由、又被仰定之後、于今敢無異論、而恵印巧新儀、云作手云負所、恣所致濫妨也、就中沙汰之間、為寺領之由恵印証文度度也者、先於寺役者任先例早可被令勤仕、於領主相論者、理非見于両方申状、且又可被召決彼此之者、大法師恵印今年五月廿二日陳状偁、件田畠者、地主者発志院也、負処者御寺進官、 又東大寺雑役免也、既於負処者、可任両寺左右、然非地主進止事敗、仍相待両寺裁報期間、東大寺所司可勤仕東大寺役之由訴申、責勘尤重、随其催可勤仕東大寺役之旨申畢、于今其役无懈怠勤仕、但自彼寺所送下文状云、若自御寺於有進官役催時者、可致其沙汰者、仍其下文状別紙注之、然則自御寺公文所无御制止期間、可動仕東大寺役之由存知仕、全無關怠勤仕之処、不勤仕之旨被訴申条、訴訟趣非他、只於地主慧印致責勘歟、若爾言語道断非理訴也者、如恵印陳状者、地主者発志院也、負所者興福寺進官、又東大寺雑役免也、然者自興福寺無制止期間、可動仕東大寺役云云、宜以発志院為地主、先令勤仕東大寺役、於興福寺進官者、自本寺出訴之時有左右者(可脱ヵ)、以前両条、依長者宣、所仰如件、不可違失、故下、

嘉応元年十一月十九日 知院事大蔵録高橋(花押)
別当修理左宮城使左中弁兼文章博士藤原朝臣(花押)民部丞藤原(花押)
蔭子藤原(花押)
知院事刑部録惟宗
大蔵録安倍
宮内録大江
右史生高橋(花押)
高橋

6. 平安遺文 古文書編第七巻(三三〇三)

長寛二年(1164年):大和国箕田庄文書目録(東大寺文書)

(端裏) 「四卷」
大佛香菜免箕田庄等証文事
合四卷
一卷十八枚定坪付寺牒、國判、康和二年、見彼五町寺領之由、
一卷廿四枚代代寺牒國判 至天喜之、見箕田庄往古三〇町之由、
一卷九枝香菜免官物國撿田付寺家証文、濂和已後至天承
一卷九枚箕田庄内無發志院領不見之由、保延康治比、
已上
右當免文書、雖有其数、且所撰進如件、

長寬二年八月廿五日 (花押)

発志院(橋院庄)の荘園構造と地域実務の変遷

日本荘園データによる「橋院庄」の定義から、平安・鎌倉期の土地相論、江戸期の村政文書まで、橋本家が拠って立つ基盤の歴史的変遷を概観します。

1. 日本荘園データ(国立歴史民俗博物館 報告書6)

「発志庄」と「橋院庄」が同一の荘園コード(0299109/0201085)で結ばれており、名称の変遷が学術的に裏付けられています。

[莊園名] 発志庄 (ハッシ) 添上
[荘園コード]0299109 [重複コード] 0201085
[初見年]嘉禄二年(1226)
[出典]内閣文庫所蔵大和国古文書 [遺文番号]#3558
[備考][カ1624] には橋院庄とあり、発志院庄である。→0201085橋院庄

[莊園名]橋院庄 (ハッシイン)添上 大和郡山市
[荘園コード]0201085 [重複コード] 0299109
[初見年]建永元年(1206)
[出典]東大寺文書・内閣文庫所蔵大和国古文書
[遺文番号]1624-3558
[備考]カ3558=発志庄

平安・鎌倉期の土地相論と「発志院」の強固な在地権

箕田庄・高殿庄を巡る「東大寺 vs 興福寺(発志院)」の論争を通じて、発志院が単なる末寺ではなく、地主として強固な支配権と交渉力を持っていた実態を浮き彫りにします。

史料:国史論集(平安・鎌倉期の土地相論と負所)

【高殿庄の逃亡と追捕】

嘉應二年四月興福寺西金堂衆大法師欣西(房號南聖)は刷白政所に訴えて嘉應元年六月の大旱魃が尋常なものでなかったので、負所の關係より、興福寺は使者を出して、東大寺と共に高殿庄に下向したところ、「庄民不堪勘責」ついに逃亡した。東大寺上座覺仁は、高殿庄より帰った使者の報告を得て、東大寺政所の裁定を求め、高殿庄に四月十七・ 十八日再び使者を下し、「追捕民宅、換取巨多雜物」らしめた。また四月廿四日、東大寺使は、夜庄民の麥畠に入り、麥守の男及び庄民に打たれる結果をまねいた。

平安・鎌倉期の土地相論と「発志院」の強固な在地権

箕田庄・高殿庄を巡る「東大寺 vs 興福寺(発志院)」の論争を通じて、発志院が単なる末寺ではなく、地主として強固な支配権と交渉力を持っていた実態を浮き彫りにします。

史料:国史論集(平安・鎌倉期の土地相論と負所)

【高殿庄の逃亡と追捕】

嘉應二年四月興福寺西金堂衆大法師欣西(房號南聖)は刷白政所に訴えて嘉應元年六月の大旱魃が尋常なものでなかったので、負所の關係より、興福寺は使者を出して、東大寺と共に高殿庄に下向したところ、「庄民不堪勘責」ついに逃亡した。東大寺上座覺仁は、高殿庄より帰った使者の報告を得て、東大寺政所の裁定を求め、高殿庄に四月十七・ 十八日再び使者を下し、「追捕民宅、換取巨多雜物」らしめた。また四月廿四日、東大寺使は、夜庄民の麥畠に入り、麥守の男及び庄民に打たれる結果をまねいた。

【箕田庄の免田成立と発志院の地主職】

この高殿荘の相論に合せて、箕田庄の佛聖免田の未納の場合を考えて見ると、
當庄(箕田庄)者當寺建立以降、大佛御佛聖、元代代聖皇以供御稻被分獻、於御菜者、以公田三百六十町、每日供奉年尙、仍代代國司免除所當公事、臨時雜役、為往古例、去寛弘・萬壽被下宣旨畢、然而依爲浮免有旁頌之日、 以承保三年定坪下宣旨、被立券爲永代之寺領、于今所動仕所役也、と免田型莊園の成立過程を如實に説明している。
この箕田庄の相論は、大法師恵印が、在地の地主が發志院であるのに、恵印が「押取庄民之作手、企相論」と、「爲領主之靜」としたことに原因があった。

【恵印の毅然たる申状と負所の実態】

この訴状に、大法師恵印は、
「地主者發志院也、負處者御寺進官、又東大寺雜役免也、即於負處者、可任兩寺左右、然非地主進止事殿」
と述べ、負所役については、東大・興福兩寺の自由の話合により、辨濟の先後を決めていただいた方へ納入する。東大寺が責め立てれば東大寺へ、興福寺が責め立てれば興福寺へ納めるのであって、「自興福寺無制止之間、可動仕東大寺役」と返答した。

💡 この史料の決定的ポイント

  • 地主権の明示: 発志院が箕田庄において「地主(土地の基礎的な所有権者)」であることを公式に宣言しています。
  • 対等な交渉力: 在地の恵印は、東大寺という大権門からの催促に対し、論理的かつ毅然と対応しています。これは、発志院(および後の橋本家)が単なる小作・被支配層ではなく、「寺社と直接交渉を行えるだけの社会的身分と法的知識」を備えた家系であったことを証明しています。
  • 免田型荘園の脆弱性と在地支配: 上部構造(東大寺・興福寺)が権利を争う中で、実質的な土地管理は地主である発志院の手中にあったことがうかがえます。

【恵印の毅然たる申状と負所の実態】

この訴状に、大法師恵印は、
「地主者發志院也、負處者御寺進官、又東大寺雜役免也、即於負處者、可任兩寺左右、然非地主進止事殿」
と述べ、負所役については、東大・興福兩寺の自由の話合により、辨濟の先後を決めていただいた方へ納入する。東大寺が責め立てれば東大寺へ、興福寺が責め立てれば興福寺へ納めるのであって、「自興福寺無制止之間、可動仕東大寺役」と返答した。

💡 この史料の決定的ポイント

  • 地主権の明示: 発志院が箕田庄において「地主(土地の基礎的な所有権者)」であることを公式に宣言しています。
  • 対等な交渉力: 在地の恵印は、東大寺という大権門からの催促に対し、論理的かつ毅然と対応しています。これは、発志院(および後の橋本家)が単なる小作・被支配層ではなく、「寺社と直接交渉を行えるだけの社会的身分と法的知識」を備えた家系であったことを証明しています。
  • 免田型荘園の脆弱性と在地支配: 上部構造(東大寺・興福寺)が権利を争う中で、実質的な土地管理は地主である発志院の手中にあったことがうかがえます。

3. 近世一乗院宮領発志院村の村政と「橋本家」の役割

江戸期における発志院村の士族兼庄屋・橋本家の活動記録。水利、年貢、訴訟の管理を通じて地域を実質的に支配していたことが分かります。

場所と規模

士族庄屋としての橋本家記録

年代 主な内容・役人名
明暦2年(1656) 中城・発志院相合池水利取決。庄屋:弥次右衛門
元禄期 新池・古池書上、悪水請。庄屋:茂兵衛、左次兵衛
天明元年(1781) 綿作不作歎(赦免願)。源太郎・善右衛門連名
寛政7年〜 宗門改帳:世帯数推移。橋本家のような士族庄屋家が極めて安定。
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